三千家について ~ 茶道の知識
三千家について ~ 茶道の知識
茶道の流派は数多くあり、その数は何百ともいわれますが、その中でも侘び茶の世界を確立した千利休を祖とする三千家は、最もメジャーな流派として知られています。
三千家は、千利休を創始者とする千家流のうち、表千家・裏千家・武者小路千家を総じていう呼び名です。
この三千家は千利休の孫にあたる千宗旦の息子たち、つまり千利休のひ孫から枝分かれしたものです。
三千家の成立 ~ 茶道の知識
千宗旦(1578~1658年)は、10歳のころ、大徳寺の春屋宗園の喝食となり、得度して蔵主にまで上り、後に千家に戻り千家の象徴であった茶室・不審庵を受け継ぎました。
千宗旦には4人のこどもがいましたが、長男を勘当し、次男の一翁宗守を養子にだしたため、「不審庵」を三男の江岑宗左に譲り、家督を継承させます。
そして、宗旦は四男の仙叟宗室とともに不審庵の北裏に「今日庵」を建てます。後に、宗旦は隠居所で暮らすようになり、今日庵を仙叟宗室に譲りました。
さらに養子にでていた次男・一翁宗守も、宗旦の晩年に千家に戻り、「官休庵」武者小路千家を称しました。
ここに不審庵・表千家、今日庵・裏千家、官休庵・武者小路千家の三千家が成立し、ここからそれぞれ、家元制度をとり、組織として大きくなっていったのです。
表千家の「表」は、千家の象徴である茶室・不審庵が、通りの表に位置しているためといわれ、不審庵の裏に建てられた四男の今日庵が、裏千家と呼ばれるようになりました。
千宗旦は「乞食宗旦」と異名をとるほど、侘び茶に徹しましたが、江岑宗左を紀州徳川家に、仙叟宗室を加賀前田家に、武者小路千家を興した一翁宗守を高松松平家に仕えされるなど、千家存続を図った功績は多大であるといわれています。
三千家の違い ~ 茶道の知識
三千家はそれぞれ使う茶道具や作法に違いがあります。
茶筅は、表千家と武者小路千家が煤竹、裏千家は白竹が用いられます。
帛紗の色や柄もそれぞれ異なり、表千家と武者小路千家で使う帛紗の色は、男性は紫色で女性は朱色、裏千家で使う帛紗は、男性は紫色で女性は赤色です。
菓子器は、表千家と武者小路千家が蓋付きの喰籠、裏千家は蓋無しの鉢となっています。
抹茶は薄茶の場合、よく泡立っているお抹茶が裏千家、あまり泡を点てないのが表千家と武者小路千家です。
作法についてですが、正座の仕方にも流派ごと、男女で違いがあり、裏千家では、男性はこぶし2つ分両膝をあけ、女性はこぶし1つ分あけて座ります。
表千家は、男性は安定する広さに両膝をあけ、女性はこぶし1つ入るくらいに膝を明けて座ります。
武者小路千家では、男性はこぶし1つ分、女性は膝を開かずに正座するといったように細かな部分で異なります。
お辞儀は、表千家では両手を八の字につき、武者小路千家では、左手が前になるよう、膝前で軽く合わせ、指先を畳に軽くつけてからお辞儀します。
裏千家ではお辞儀は、おなかが膝につくほどの丁寧なお辞儀をする「真」、前に身体をかがめる程度のお辞儀である「行」、軽くお辞儀をする「草」の3種類があります。そして、畳み一条の歩き方は、表千家・武者小路家が約6歩、裏千家が約5歩で歩くとなっています。
上記がすべてではありませんが、このように三千家それぞれの流派により、違いがあります。しかし、茶聖・千利休が大切にした客人へのおもてなしの心や、侘び寂びを重んじるといった根本的な部分に変わりはありません。