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茶の湯の歴史~茶数寄の時代 ~ 茶道の知識

2016/06/03

茶の湯の歴史~茶数寄の時代 ~ 茶道の知識


闘茶の時代を経て、十五世紀に入ると、ただ茶を賭け事として遊ぶだけでなく、その際に使う天目や水指にこだわりを持つ人々が現われるようになり、さらには茶を飲むことそのものに精神的な意味をもたせるようになっていきました。


室町時代初期には、和歌を使った文芸のひとつである連歌が流行し、連歌会が盛んに行われていました。この連歌会のことを「歌数奇」と呼んでおり、それが茶の世界にも転化して、茶会のことを「茶数寄」と呼ぶようになりました。


「数寄」とは、もともとは好き嫌いの「好き」が語源で、風流・風雅に心を寄せることを意味し、「茶数寄」というのは使う道具に対して美意識をもって所持し、茶の湯を楽しむ人達を指す言葉として用いられました。


室町時代中期の臨済宗の歌僧・正徹は、歌論書「正徹物語」の中で、茶の湯に集う人々を「茶数寄」「茶飲み」「茶くらい」の三種類に分類しています。

ただ茶を飲むだけであれば「茶喰らい」、闘茶で茶の銘柄をみごとに飲み分ける者を「茶飲み」、使う道具にこだわり、茶の会に特別な意味を持たせる者を「茶数寄」とし、この書物により、数寄が茶の湯を対象とするようになったことを示しています。


侘数寄の成立 十六世紀には茶数寄はますます盛んになりますが、この頃の茶数寄を支えていたのは、公家や武家ではなく、京都や奈良、堺などの商人達でした。

室町幕府が衰退した頃から、商人達は力をつけ、将軍家や守護大名家、有力寺院などに集められていた中国からの舶来品(唐物)を財力で買い求め、それらを茶の湯の道具として盛んに使いました。

こうした商人の一部は南蛮貿易にも携わっており、輸入した品物の中から、茶道具としてふさわしいものを選別して、茶会に用いました。そうして選ばれた品物の中には、名物として名高かったものも多く含まれていたようです。


また、古い時代には、別の部屋で茶が点てられ、客の部屋へ運ばれていましたが、この時代の茶数寄では、客の前で茶が点てられるようになり、やがて茶を点てる動作と、順序が決められ、十六世紀の終り頃には「点前」が成立したと考えられています。


さらに、日本建築の中でも独特の存在である茶室の形態も、十六世紀後半に確立したとされています。 それまでは、茶数寄だけでなく、歌数寄、香の会、立花の会も、同じ場所で行われていたと考えられており、その部屋を「会所」と呼んでいました。会所はかなり広い部屋で、茶数寄をするには、一画を屏風などで囲って空間をつくっていたようです。

やがて茶数寄専用の六畳敷き、四畳半敷きの広さの狭い部屋が作られるようになりますが、十六世紀の終り頃には、さらに狭くなり、ついには二畳敷きとなり、それに伴い、窓や天井、入り口に様々な工夫が凝らされるようになり、茶室が確立しました。


千利休が活躍した十六世紀末には、茶室、茶道具、点前が急激に変化したのは周知の通りです。千利休の時代には、茶室は、二畳敷きの狭いものから、二畳台目と呼ばれる三畳より少し狭いもの、三畳敷きが主流となりました。


茶道具では唐物より、和物(国産)、高麗物(朝鮮半島産)、や南蛮物(東南アジア産)が多くなります。点前は予め茶室内に茶道具を飾っておく方法から、風炉と釜を除いて、運び出されて茶室の畳の上に置かれるという形式へと変化します。


こうした茶数寄の変化は、「山上宗二記」(千利休の一の弟子と自認した山上宗二の著)によれば、「侘数寄」が成立して、その美意識にかなうように茶数寄が変化したからだと記されています。そして、この侘数寄の成立は、当時の最高権力者であった豊臣秀吉に気に入られ、茶の湯のことだけではなく、政治的にも大きな影響力を持っていた千利休が主導したものと考えられています。