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千利休の墓 ~ 茶道の知識

2015/11/29

千利休の墓 ~ 茶道の知識


千利休の生涯 ~ 茶道の知識

戦国時代・安土桃山時代の茶人で、極限まで無駄を削ぎ、緊張感を生み出すわび茶を大成させた千家流茶道の祖として知られる千利休。


千利休は、大阪・堺の魚問屋に生まれ、18歳の時、当時の茶の湯の第一人者であった武野紹鴎に師事して、侘び茶を学びます。

そして、千利休は師の武野紹鴎の教えをさらに進め、“侘び”の対象を茶道具から、茶室の構造・点前作法など、茶会全体の様式にまで拡大しました。また、大徳寺で禅を修得して「茶禅一味」を唱え、「これ以上何も削れない」という極限まで無駄を省いた「侘び茶」を完成させ「茶聖」と称せられました。


千利休は、織田信長に今井宗久らと茶頭として雇われ、その後は、豊臣秀吉に仕え、関白就任の返礼で、天皇に自ら茶をたてる禁裏茶会をとりまとめ、天皇から「利休」の号を賜り、茶人としての名声が広まりました。

茶人としてだけでなく、政治への影響力も多大にあった千利休ですが、その後は、権力者・豊臣秀吉との理想とするところが大きく異なるなど、次第に対立していき、ついに「大徳寺木像事件」で秀吉と衝突し、切腹を命じられ、その生涯を閉じます。


大徳寺木像事件…千利休が私財を投じて大徳寺山門工事を行い、金毛閣を完成させ、この造営を記念して雪踏(せった)を履き、杖をついた利休自身の木像が山門に安置されました。

関白も通る山門の上から、雪踏履きで見下ろした千利休の像は、不遜極まるという理由で、豊臣秀吉より千利休が堺に蟄居を命じられたというものです。


その後、千利休は京都に呼び戻され、聚楽第(秀吉が関白になったことをきっかけにつくった京都の政庁兼邸宅)内で切腹を命じられました。

千利休が豊臣秀吉から切腹を命じられた理由には諸説ありますが、切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図る恐れがあるとして、上杉景勝の軍勢が聚楽の屋敷を取り囲んだと伝えられています。


切腹の際、千利休は、その命を伝えに来た使者に静かに「茶室にて茶の支度が出来ております」といい、切腹前の最後の茶をたてた後、一呼吸ついて自刀したといわれます。

こうして、豊臣秀吉により、自害させられることとなった千利休ですが、権威に屈せず、自己の美学を貫き通した千利休の追い求めた“不足の美”の侘びの精神は、今も尚、日本人の文化に強く根付いています。



聚光院 ~ 茶道の知識

茶聖 千利休の墓は、織田信長が眠る、京都 総見院の隣にある、臨済宗大徳寺派・聚光院にあります。

聚光院は、室町時代の将軍 足利義晴に仕えた三好長慶の養子 三好義継が父の菩提をとむらうため建立した寺で、笑嶺和尚に参禅した千利休が檀家となって、多くの資財をよせ、以来、聚光院は茶道三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)の菩提所となっています。


千利休の墓は、高さ約2メートルの宝塔で、もとは船岡山にあった供養塔を生前に利休が愛し、没後自らの墓標としたと伝わっています。

千利休の墓は土塀を隔てて聚光院本堂庭園の南側にあり、千利休の墓を中心に、周囲には三千家歴代の墓や三好長慶の墓といわれる五輪石塔があります。


聚光院には、利休150回忌につくられた利休好みの三畳台目の茶室 閑隠席があり、聚光院本堂と、この茶室は重要文化財に指定されています。閑隠席は、かつては「利休自刃の席」などいわれていました。通常は一般公開されておらず、毎月利休の切腹した28日に茶の供養が行われています。


この聚光院は、千利休が菩提所と定めて以来、三千家の菩提寺として茶人の崇敬を受けています。

聚光院の方丈庭園は、千利休作と伝えられており、苔庭に直線上に庭石を置き、石組みの多いことから「百積の庭」といわれ、国の名勝にも指定されています。


聚光院の文化財 ~ 茶道の知識


【国宝

方丈障壁画 38面 (狩野永徳・狩野松栄)

花鳥図 16面(狩野永徳)

琴棋書画図8面(狩野永徳)

瀟湘八景図8面(狩野松栄)

竹虎遊猿図6面(狩野松栄)

蓮鷺藻魚図8面(狩野松栄)

【重要文化財

方丈(本堂)

茶室(閑隠席、枡床の席、水屋、六畳2室)

三好長慶像

絹本著色三好長慶像


また、千利休の供養塔が千利休にゆかりの深い堺・南宗寺にあり、千家一門の供養塔とともに建てられています。この南宗寺は、徳川家康の亡骸が日光東照宮へ改葬される前に、一時埋葬された場所としても知られています。





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