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肩衝茶入について ~ 茶道の知識

2015/11/19

肩衝茶入について ~ 茶道の知識


茶入とは「原色茶道大辞典」によれば、「茶道具の一種。濃茶抹を入れて、点前に用いる陶製の小壷。(中略)元来、茶器は単に一茶湯道具でありながら実用面以上に貴重視され、東山時代には既に高貴な名峰としてその扱いに特別の礼法も生じ、戦国時代より桃山時代にかけては一国一城にも変わる大役を果たすようになり、武将らはこれを権威の象徴とし、小壷狩りと称してこれを集める傍ら、家臣に対してこれを褒賞として与えたりしたのである。江戸時代には、幕府はこれを将軍家への忠誠を約する証明の品となし、大名と柳営の間を往復させたのである。」とあります。

簡略して言えば、茶入は濃茶を入れる小壷で、狭義には棗に代表される木製茶器の薄茶器に対する陶磁器製の茶器を指します。


茶入には様々な分類の仕方がありますが、形状では、

• 肩衝(かたつき)系

• 小壷(こつぼ)系

• 雑唐物(ぞうからもの) の3つに大別されます。ここでは、肩衝茶入について説明します。


肩衝とは ~ 茶道の知識

肩衝は「かたつき」と読み、肩付と書かれる場合もあります。

肩衝茶入は、上方部(肩)が横に張り出した茶入です。肩衝という名前は、肩の部分が角ばっている、つまり肩が衝(つ)いていることに由来しています。茶入の肩が張った姿が、力強い印象を与えます。

現在生産される茶入の多くは、この肩衝であるといわれています。また今日では、縦長の茶入を全て肩衝と呼ぶ場合もあります。


丸い形姿の茶入である茄子は天下、肩衝は征夷大将軍といわれており、肩衝茶入は武士に好まれていたとされています。武士が肩を好んだ理由としては、武士が正座して座った姿が、この肩衝の姿に似ているからともいわれています。


肩衝系の茶入にも、肩の付き方でいくつか種類があり、春慶肩衝、撫肩、一文字、車軸、耳付、面取などがあります。

また、茶入の大きさにより、3つに分けられています。

大肩衝~男性的なやや大きめの肩衝

小肩衝~女性的な撫で肩のやや小振りの肩衝

半肩衝~丈けのつまった肩衝


天下三肩衝とは ~ 茶道の知識


有名な肩衝には、初花・新田肩衝・楢柴肩衝があり、これらを「天下三肩衝」と呼んでいます。


初花肩衝~古来「大名物」として名高い茶入で、徳川将軍家伝来の陶製の肩衝茶入。中国の南宋または元時代の作と推定され、戦国時代に日本に渡来したと伝わっています。


新田肩衝~水戸徳川家伝来の陶製茶入であり、古来「大名物」として名高い茶入。中国の南宋または元時代の作と推定され、後に織田信長の所持となり、本能寺の変後、豊臣秀吉の所持となり、大阪城落城後、徳川家康の命を受けた塗師の藤重藤元・藤巖父子が被災したこの新田肩衝の欠片を探し出し、漆で継ぎ修復して徳川家康に献上したと伝えられています。

初花に比べ胴が張っているため全体に丸みを帯びており、撫肩で、当初は海松色の釉薬が掛かっていたとされているが、大坂の陣で被災後の姿は光沢のある黒褐色と変化したとされています。


楢柴肩衝~釉色が濃いアメ色で、これを「恋(こい)」にかけて「万葉集」の「御狩する狩場の小野の楢柴の汝はまさで恋ぞまされる」の歌に因み、この名になったとされます。

千利休の高弟 山上宗二が天下一品の壷と絶賛した肩衝。

もともとは足利義政の所有物であったが、その後は転々とし、織田信長もこの名物肩衝を欲しがりましたが、本能寺の変により実現しませんでした。

さらに九州征伐の際、島津氏に属していた秋月氏から、降伏の証として、豊臣秀吉へと献上され、天下三肩衝(初花・楢柴肩衝・新田肩衝)は全て秀吉のものとなったとされます。後に豊臣秀吉の臨終の際に、徳川家康に授けられたが、明暦の大火の際に破損し、修繕されました。その後、所在不明になったということですが、博多の豪商「神屋宗湛」の著作「宗湛日記」にて釉柄が伝わっています。




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