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棗(なつめ)とは ~ 茶道の知識

2015/11/15

棗(なつめ)とは ~ 茶道の知識


棗の由来 ~ 茶道の知識

棗の名称は、その形状がクロウメモドキ科の植物である棗の実に似ていることによるといわれます。

薄茶の容器である棗は古くより多くの茶人達の好みにより、色々な種類と様々な形態の作品がつくられてきました。


平安時代初期の僧・永中が唐より茶の樹の種を持ち帰りましたが、日本における抹茶の始まりは、鎌倉時代に僧・栄西が南宋より茶の樹と抹茶の飲み方をもたらし、薬用として鎌倉の禅寺に伝えてからとされています。

当時の抹茶の容器は、茶の香気を逃さず、かつ湿気を呼ばない扱いやすい容器が求められ、小形な漆器が好まれ、茶桶と称されました。


室町時代の中期は蒔絵を採りいれた豪華な茶桶などが現れました。 南北朝時代、後醍醐天皇が金輪寺において僧たちに茶を振る舞った際に用いられた薄茶の器は、吉野の蔦を意匠とした経筒形の胴に置蓋を被せた形式で、これは金輪寺茶器として知られています。 奈良の塗師・羽田五郎は、五郎棗と呼ばれる漆器を創作したと伝えられますが、その後、侘び茶の祖・村田珠光、茶道の先達・武野紹鴎、侘び茶の完成者・千利休等により、棗の形態が工夫され、形姿は次第に定着していきました。


武野紹鴎は唐物茶器の形態を基にして、黒漆器の棗を作らせ、利休は・武野紹鴎の黒棗を基に、裾のやや細まった胴に、僅かに膨らみのある蓋を合口で被せ、底を若干上げてすわりを良くした美しい形の利休形の棗をつくり、茶会に多用しました。

千利休の死後は、侘び茶の教えは茶人達に引き継がれ、千家から三千家へと連綿と続く宗匠たちの好みを採りいれた棗が生み出されました。 時代を重ねて茶道の大衆化が進むと、棗の塗りの技巧も工夫され、華麗な蒔絵の意匠が用いられるようになりました。



棗の製作に腕を振るった塗師・蒔絵師のほとんどは無名の職人でしたが、中には天下一の称号を授かったり、権力者のお抱え職人になるなど、後世に名を残す者もいました。江戸時代の幕末から明治時代にかけては、漆工芸の復興に係った漆芸作家の多くが棗などの茶器製作に携わっています。 棗の歴史において特筆される流派や名工は以下の通りです。

塗師】

中村派 代々千家十職の塗師として活躍。

飛来派 中国より帰化した代々千家十職の塗師で、一閑張の塗師として活躍。

【蒔絵師

幸阿弥派 足利・豊臣・徳川家に仕える。

五十嵐派 足利・豊臣・加賀家に仕える。高蒔絵に金貝、切金の象嵌を特技とする。

古満派 徳川家に仕える。

山本派 京都御所の仕事に携わる。 等


棗の製作に秀でた名工…羽田五郎、余三、記三、藤重藤巌、近藤道恵、関宗長、春斎、岸一閑等。


棗の拝見 ~ 茶道の知識


点前の後には「お道具拝見」を行いますが、茶人好も多い棗の場合は、茶杓とあわせて拝見します。


棗を左手にのせ、右手に茶杓を持ち、茶杓を右膝から少し離して縁内に置き、棗を右手で上から持ち替えて、右膝脇、茶杓の左に置きます。

そして、棗を縁外正面に出し、手をついて棗全体の姿を見ます。左手を添えて、右手で棗の蓋を取り上げ、蓋の表を見て、裏返して見て、棗の右に蓋を置きます。

棗を取り上げ、茶の掬い方、棗の模様などを拝見します。茶の姿が崩れないよう、あまり棗を傾けすぎないようにします。

右手で蓋を取り、左手を添えて棗に蓋をします。

手をついてもう一度全体の姿を拝見します。 左膝脇の縁内に送り、次に茶杓の拝見に移ります。


棗は形状や塗りの多彩なことから、茶道だけでなく工芸品としての技法に焦点を当てて鑑賞や蒐集を楽しむことができます。

棗の品定めは、木地の木取り、木目の次第、合口の滑らかさ、塗りの入念さに留意し、漆・蒔絵が施された棗の場合は衣装の構成、伝統性、斬新さにも注目します。

棗は近年、贋作や写しが現れ、箱書きの信頼性も薄れてきているとされており、優品の棗の入手をするには、経験と知識に基づいた確かな眼力が必要とされています。



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