利休とは? ~ 茶道の歴史
利休とは?
利休とはどんな人?
戦国時代~安土桃山時代にかけて活躍した茶人 千利休(せんのりきゅう/せんりきゅう)、すなわち利休とは、どんな人だったのでしょう?
利休とは茶聖と呼ばれ、侘び茶の大成者として、茶の湯のみならず、日本の歴史上においても重要な人物として知られます。
利休とは?利休の侘び茶の原点
利休は大阪堺の魚問屋の息子として生まれ、利休は、堺で高名な商人であった父の跡取りとして品位や教養を身につけるため、十六歳で茶の道に入り、十八歳にして、時の茶の湯の第一人者 武野紹鴎の元で学びます。
武野紹鴎は、不完全だからこそ美しいという「不足の美」に禅思想を採り込み、日常生活の中の雑器を茶会に用いて、茶の湯の簡素化に努め、茶の湯の世界に“侘び”を求めましたが、利休は、師の武野紹鴎の主唱した茶を継承しつつも、さらに創意工夫を加え、侘びの対象を、茶道具だけでなく、茶室や点前作法など、茶会全体の様式にまで拡大しました。
利休とは簡素簡略の境地である侘びの精神を基に茶の湯を重んじた人物です。
当時の茶器は中国や韓国などの唐物が主流でしたが、利休は素朴な手練りの温かみを持つ楽茶碗を創作し、また、掛物には禅の精神の“枯淡閑寂”を反映させた水墨画を好むなど、無駄を削って緊張感を生み出した侘び茶を大成させました。
利休とは~利休が追い求めた美学
利休は、織田信長の時代にはおいては、今井宗久、津田宗及という堺の大商人とともに御茶頭に任ぜられ、豊臣秀吉の頃には御茶頭八人衆の筆頭、天下一宗匠と称せられました。
政治的にも豊臣秀吉の側近として多くの大名にも影響力を持っており、秀吉が正規町天皇へ御茶献上の折り、後見役を務め「利休」の号を得ました。
利休独自の茶が完成したのは、六十歳を越えた晩年の十年間といわれますが、侘び茶に美を求めた利休とは反対に、豊臣秀吉の求めた茶の道は豪華絢爛な黄金の茶室で、利休との茶の湯の美の価値観は大きく異なっていました。
利休の求めた侘びの美を表すエピソードの一つにこういったものがあります。
利休は、秋の庭の落ち葉を、掃除するよう弟子に命じ、弟子が一枚残らず綺麗に掃いたところ、利休が最後に落ち葉をパラパラと庭にまた散らしました。「折角、掃いたのに何故」と尋ねられた利休は「秋の庭に塵一つない庭はさびしすぎて侘びがない。落ち葉が少々散っているほうが自然でいい」と答えたとか…。
また、利休が設計した二畳敷の小さな茶室である国宝の「待庵」は、限界まで無駄を削ぎ落とした究極の茶室とされています。
利休考案のにじり口は、間口が狭いうえに低位置にあり、天下人豊臣秀吉でさえも刀を外して、頭を下げて、這うような形にならないと中には入れません。これは、利休が茶室という小宇宙では、身分に関係なく「平等の存在」であることを示しています。
こういった利休の毅然とした妥協のない態度が次第に豊臣秀吉の逆鱗に触れることとなり、利休は切腹へと追いやられていきました。
豊臣秀吉が何故、利休に切腹を命じたかは定かではありませんが、政治的影響力をも持っていた利休に下剋上の危機を感じ、権力を誇示したともいわれています。
利休とは~利休没後の茶の湯の世界
侘び茶の茶の湯は、切腹により不遇の死を迎えた利休により確立され、利休の自刃後は、高弟の古田織部が茶頭となりました。
徳川家康は、古田織部が、利休のように政治的影響力を持つことを恐れ、茶の湯は危険視されることとなり、当時は小堀遠州らの保守的で穏やかな「綺麗さび」が主流となりました。
後年になり、利休の孫・千宗旦が利休の侘び茶を再興し、表千家・裏千家・武者小路千家の三千家として現代まで継承され、今では世界各国の千家の茶室で、多くの人々が利休の侘び茶の世界を、寛ぎのひと時として楽しんでいます。