買取強化中の茶道具

千家十職の茶道具を買取強化

千家十職(せんけじっそく)とは、千利休を祖とする千家の流れを汲む茶道の家元である三千家〔表千家・裏千家・武者小路千家〕に出入りする「職家」を指し、代々にわたって茶の湯の道具を製作してきた人々をいいます。

茶の湯の世界では千利休の時代から今日においても「職家」と呼称され、
現代では茶碗師、釜師、塗師、指物師、金物師、表具師、
袋師、一閑張細工師、柄杓師、土風炉師の十の職家を表す尊称です。
三千家に茶道具を納めていた職家は江戸時代を通して八家から十二家まで変動しています。
他にも現在の十職になるまでは茶道具を製作していた職家が
二十家以上も存在していたといわれています。

七事式や伝統的な形式をとった茶道具の製作や、
三千家の行事などでの役割を務めるため徐々に出入りする職家は
十家の職家に固定されてき、1840年(天保11年)の利休二百五十年忌頃には、
ほぼ現在と同様の千家出入りの職家になっていき、
明治期には現在の十職に整理されていったとされています。
大正時代に三越百貨店が名付けたという説もあります。

茶碗師 - 樂吉左衛門(らく きちざえもん)

樂家初代・長次郎から続く、樂焼の茶碗を作る茶碗師。
初代・長次郎は樂焼の創始者といわれています。
中国出身の父・あめや(阿米也、飴屋)と母・比丘尼の間に生まれ、
樂家の代名詞となる黒釉茶碗の製作に優れた才能をみせました。
長次郎の没後、長次郎の妻の祖父であり、長次郎と共に樂焼を製作し、
共同経営者であったのではないかといわれている田中宗慶が、
豊臣秀吉から聚楽第の一字をとった「樂」の金印を与えられた事が
樂家の始まりといわれています。
系譜については諸説ありますが、現在では1955年(昭和30年)に
14代・覚入が発表した見解が受け入れられております。
3代・道入以降の当主には隠居した際に「入」の字を含む「入道名」が贈られており、
後世ではその「入道名」で呼称される事が多い。

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釜師 - 大西清右衛門(おおにし せいうえもん)

初代・浄林、室町後期の時代より400年続く京釜師。
古田織部や織田有楽斎など、武家茶人の釜を手がけたとされています。
大西家の祖先は山城の国(現在の京都府南部)・南山城広瀬村の出身であり、
1620年頃(元和6年)初代浄林が30歳の頃に二人の弟と京へ上洛し、
三条釜座(かまんざ)の座人になったのが始まりといわれています。
元禄時代の6代・浄元の代から、表千家6代・覚々斎、
表千家7代・如心斎の元で千家出入りの釜師になったとされています。

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塗師 - 中村宗哲(なかむら そうてつ)

初代・宗哲(八兵衛、又は八左衛門)より400年続く塗師。
中村家の祖は豊臣秀吉の重臣、中村式部小輔一門の武士で、
大阪夏の陣に合戦を疎み、京の武者小路に隠栖し茶の湯を嗜んだとされています。
千宗旦の弟子・藤村庸軒や京の豪商・灰屋紹益とも親交深く、
表千家4代・江岑宗左、裏千家4代・仙叟宗室、
武者小路千家4代・一翁宗守の好み物を作りました。
千家3代・千宗旦の次男、一翁宗守は塗師を営む初代・宗哲(吉岡八兵衛)の婿養子となり、吉文字屋の吉岡甚右衛門と名乗り塗師を営んでいましたが、
晩年に官休庵〔武者小路千家〕を開き茶道の世界へ戻り、吉岡家を出る事となります。
こうして吉岡甚右衛門から武者小路千家4代・一翁宗守へとなりました。
そして吉岡家家業の吉文字屋を初代・宗哲(吉岡八兵衛)に返したとされています。

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指物師 - 駒沢利斎(こまざわ りさい)

初代・宗源(理右衛門)の延宝年間(1673~1681)より続く指物師。
千家に関る様になったのは2代・宗慶の頃であり、千家3代・千宗旦の注文で
指物を製作したのが縁となったが、更に積極的に千家と関るのは4代・利斎からです。
利斎は表千家六世・覚々斎の知遇をえて千家出入りの指物師として指名され、
「利斎」の名を与えられました。
これ以後、代々の駒沢家当主は「利斎」を名乗るようになります。
十職の職方の中でも駒沢家は当主や親族が短命で世を去る事が多く、
大成前に早世する当主が相次ぎ、後継者問題に悩まさました。
現在では1977年に14代・利斎が没して以降、当主空席状態が続いていますが、
14代・利斎の甥の息子である吉田博三氏が後を継ぐべく修行中であり、
吉田博三氏が利斎の業を継ぐ日も遠くはないと言われています。

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金物師 - 中川浄益(なかがわ じょうえき)

初代・中川与十郎(紹益)より続く金物師。
初代・中川与十郎(紹益)は越後国高田佐味郷の出身で甲冑・鎧を製作していました。
天正年間(1573~1592)初め頃に上洛します。京へ出てからも培った業を生かして
引き続き甲冑・鎧などの武具を鋳造していました。
茶の湯と関るのは1587年(天正15年)で、
豊臣秀吉が催した北野大茶の湯に際して、初代・紹益は千利休に依頼され、
利休の指導と得意の打物(うちもの)の技能を活かし薬鑵を製作しました。
この薬鑵が現在では一般的な「利休形腰黒薬鑵」です。
この作品の出来栄えに満足した利休は以降、紹益に茶の湯の道具を依頼する事となります。
初代・紹益の息子、二代・浄益の頃の寛永年間(1624~1645)には
千家出入りの職方となり、表千家4代・江岑宗左の提言として
豪商・灰屋(佐野)紹益と紛らわしいので浄益に名前を改めるよう申しつけられ、
以降は代々「浄益」を名乗っています。

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表具師 - 奥村吉兵衛(おくむら きちべえ)

初代・奥村吉右衛門清定から続く表具師。
奥村家は宇多源氏の一流の佐々木氏の末裔を称し、
近江国北部の郷士だったといわれています。
奥村三郎定道の代、姉川の戦いの後に、主家の浅井氏が滅亡し浪人となってしまいます。
定道の長男・奥村源六郎定次は長男・源子郎を前田利家に仕官させましたが、
次男・吉右衛門清定は仕官せずに、
正保3年(1646年)に京へ出て母方の家業を継いで武士から商人となりました。
承応3年(1654年)に表具屋業を始め屋号を『近江屋吉兵衛』を名乗ります。
この吉右衛門清定という人物が初代・奥村吉兵衛とされています。
初代・吉右衛門清定の長男の吉兵衛が元禄11年(1698年)に表千家6代・覚々斎の
執り成しで紀州徳川家御用達、表千家御用達となり表千家出入りとなりました。

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袋師 - 土田友湖(つちだ ゆうこ)

初代・土田七田夫(半平)より続く袋師。
土田家の祖は近江の国蒲生郡の出身の侍・土田七田夫で、
後に初代彦根藩主・井伊直政に仕官し、代々鉄砲組頭を務めた家系とされています。
七田夫の4代後の子孫・半平は本来、土田家跡取りでしたが、
実母が早世し、後妻に入った継母が男子を産んだ為に、その異母弟に家を譲り武士を廃業し、「越後屋半兵衛」と名乗り西陣織仲買人となりました。
西陣織仲買業の傍らで、千利休や、豊前小倉藩主細川忠興(細川三斎)の
袋物を作っていた袋師・亀岡宗理の弟子となり修行を行いその家業を継ぎました。
表千家6代・覚々斎の時(1678~1730)に千家出入りの袋師となり、
茶入れの仕覆などを縫うようになったといわれています。
後に表千家7代・如心斎から「友湖」の名を贈られ、以降「土田友湖」を名乗ります。

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一閑張細工師 - 飛来一閑(ひき いっかん)

初代・一閑より続く一閑張細工師。
飛来家の祖は中国の歴代王朝・明朝の亡命人(亡命明人)の末裔だといわれています。
初代・一閑は現在の浙江省杭州西湖畔飛来峰の出身で、
成長後は臨済宗寺院・雲隠寺に入寺していました。
清の侵攻が中国南部まで及んだ際に、身の危険を感じた初代・一閑は、
同じ臨済宗の寺である、京の大徳寺170世住持・清巌宗渭和尚を頼り
寛永(1624~1645)頃に日本へ亡命しました。
日本では素生を隠し、出身の「飛来峰」から「飛来」の名をとり「飛来一閑」と名乗ります。
清巌宗渭和尚の執り成しにより3代・千宗旦に入門し、趣味の紙漆細工で
茶道具を作り愉しんでいたところを宗旦に侘茶に適う茶道具として認められ、
紙漆細工は「一閑張」と称され評判を呼ぶ事となります。
4代・一閑の頃、正徳年間(1711~1715)に表千家出入りとなり、
表千家6代・覚々斎の御用職人となったとされています。

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竹細工・柄杓師 - 黒田正玄(くろだ しょうげん)

初代・正玄(字を七郎左衛門)より続く竹細工・柄杓師。
越前の国黒田郡に生まれ、越前国の当主である丹羽長重に仕えるが、
関ヶ原の合戦で長重が西軍につき改易され、初代・正玄(七郎左衛門)も浪人となります。
この時、剃髪し「正玄」と号し、大津に移り、竹細工の製作を始めます。
黒田正玄の柄杓作りの師匠は、豊臣秀吉に柄杓を納め「天下一」と称されていた一阿彌
という醍ヶ井の井戸守であったといわれています。
その後に竹細工が評判を呼ぶ事となり上洛し、千利休や古田織部に茶道を師事しました。
小堀政一(遠州)の元で茶道の修行を行い、その推挙により江戸幕府御用達の柄杓師となります。
大徳寺156世住持・江月宗玩の元に参禅していたことから、
表千家3代・千宗旦に紹介され柄杓を納めるようになりました。

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焼物・土風炉師 - 永樂(西村)善五郎(えいらく(にしむら) ぜんごろう)

初代・西村宗禅(号:宗禅、通称:善五郎)より続く焼物・土風炉師。
室町時代、初代・宗禅は奈良の「西京西村」に住み春日大社の御器を製作していました。
晩年、室町時代末期の茶人であり千利休の師である
堺に住む武野紹鴎(たけのじょうおう)に勧められ、
土風炉を焼成するようになり土風炉師・善五郎を名乗るようになりました。
初代・西村宗禅の息子の2代・西村宗善は堺に居を置き、3代・宗全以降は
京都に定着したといわれ、千利休や古田織部に師事した小堀政一(遠州)の注文を
受けた際に「宗全」の銅印をもらい受けた事から以降、9代・宗厳まで作品に
「宗全」の印を捺用したとされています。
10代・了全の時(1770-1841年)に、
土風炉だけでなく茶道具の陶磁器の分野にも進出を始めたが、
天明の大火(1788年3月7日)で屋敷や銅印を失ってしまいます。
天明の大火からは10代・了全の奮闘と千家の援助があり復興を成し遂げた。
これを機会に10代・了全以降は千家出入りをするようになったとされています。
永楽となる兆しが現れるのは、11代・保全からで、
11代・保全は1827年に紀州藩主・徳川治寶の別邸西浜御殿の
御庭焼開窯に招かれた際に作品を賞され
「河濱支流(かひんしりゅう)」の金印と「永楽」の銀印を賜りました。
以降は「永楽」の印章を用い、12代・和全の代の途中から永楽姓を名乗る様になります。
関与した同時期の10代・了全、11代・保全も遡って永楽の名で呼ばれ、
14代・得全が襲名した1871年に正式に「永楽」の姓へ改姓をした。