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4代 一翁宗守(似休斎) 1593-1675

一翁宗守の生涯


一翁宗守は千宗旦の次男として1593年に生まれ、その後父千宗旦に進められ、後に千家十職となる塗師、吉文字屋与三右衛門の家に養子に出されます。

養子に出された一翁宗守は、吉岡甚右衛門と称し塗師として日々技術を学び、とても優れた才能を持っていたと言われています。

しかし、兄弟達に千家に戻るように進められた一翁宗守は、還暦を迎える前に茶の湯の世界へ戻りました。

千家に戻る際に吉文字屋の塗師の業は初代中村宗哲へ引き継がれています。

千家に戻った一翁宗守は、父、千宗旦の没後1666年に讃岐国高松の松平頼重の元へ茶堂として出仕して10年以上の務めを果たしました。

その後武者小路家に戻り官休庵の茶室を開きます。官休庵という名前の由来は諸説ありますが、士官を辞して休む庵という説が最も有効となっています。

官休庵の茶室を開いた所から正式に武者小路千家が始まり、それ以来武者小路千家の家元は高松藩の茶道指南役に就くこととなりました。

また、似休斎という号からは利休を追求し、慕った一翁宗守の姿が見受けられます。

武者小路千家を作った偉大なる人物一翁宗守は、82歳の高齢で亡くなりました。


一翁宗守の好み物


一翁宗守は、武者小路千家を作った偉大なる人物ではありますが還暦前まで塗師として活躍していた為、あまり好み物はありません。

少ない好み物の中で有名なのは、竹皮炭斗や信楽蓋置と呼ばれる作品です。

信楽蓋置は別名「山の神」とも呼ばれていて、三宝(供物を置く台)を型どった作品で焼き物を焼く際に山の神に供え物をする事からその名が付けられました。

一翁宗守は清貧な質素さと重々しい風格を持った道具を好み、一時茶の湯を離れていたせいか、利休の茶を切実に目指していたようです。