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3代 元伯宗旦(咄々斎) 1578-1658

利休の後妻の連れ子であった千少庵と利休の娘との間に生まれ、少庵の興した京千家を継ぎました。
宗旦は祖父利休の希望で10歳の頃大徳寺に預けられ、春屋宗園の元で前の修行を積んで得度します。このことは父である少庵が利休の後妻の連れ子であったことから、家督争いを避けるためだったと言われています。 1594年千家復興を成した父の希望で還俗し、利休流のわび茶の完成と普及に努めました。
1600年頃少庵が隠居したことに伴い家督を継ぎます。祖父の利休が豊臣秀吉により自刃に追い込まれたことから、政治との関わりを避け、生涯仕官はしませんでした。
しかし息子の仕官には奔走していたようで、長男宗拙を加賀藩前田家に、次男宗守を高松松平家に、三男宗左を紀州徳川家に、四男宗室を加賀藩前田家に仕えさせています。
その後四人いる息子のうち、長男宗拙を除く三人の息子がそれぞれ、武者小路千家(次男宗守)、表千家(三男宗左)、裏千家(四男宗室)を興しました。


三千家


茶道の流派で、千利休(抛筌斎)を祖とする千家の家督を継いだ本家の表千家と、分家の裏千家と武者小路千家をまとめて三千家と呼びます。
千利休を初代とし、2代目千少庵、3代目千宗旦と続き、宗旦の次男、三男、四男がそれぞれ、官休庵、不審菴、今日庵を継ぎました。
現在は所在地名から不審菴は表千家、今日庵は裏千家、官休庵は武者小路千家と称されています。

表千家は千宗旦の隠居に伴って、三男の江岑宗左(逢源斎)が不審菴を継承して、興しました。
不審菴を三男に譲った後、宗旦は敷地内に新たに茶室を建てて隠居し、四男である仙叟宗室(臘月庵)と共に移り住みます。
宗旦の死後、このときの茶室が仙叟宗室に譲られたことから裏千家が成りました。
また武者小路千家は宗旦の次男であった一翁宗守(似休斎)によってひらかれています。

一翁宗守は最初長男同様家を出て、塗師の家へ養子として入り、吉岡甚右衛門と称していました。しかし宗旦の晩年には江岑宗左と共に行動しており、自身の還暦を前に千家の茶の世界に戻り、兄弟の勧めで官休庵をひらきます。

この三千家を興した兄弟はそれぞれ利休を初代として数えて、4代江岑宗左、4代仙叟宗室、4代一翁宗守と呼ばれました。