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初代 利休宗易(抛筌斎) 1522-1591

利休宗易の生涯


利休宗易は千利休の名でよく知られています。
またわび茶の完成者として今井宗久、津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と呼ばれました。
堺の商家である魚屋(ととや)の生まれで、家業は納屋衆と呼ばれる倉庫業です。
若年から茶の湯に親しみ、幼名を与四郎、法名を宗易(そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい)と号しています。一般に知られている「利休」の名は居士号で、1585年の禁中茶会にあたって正親町天皇から与えられたものです。
利休は織田信長と豊臣秀吉という二人の天下人に仕え、わび茶を極めました。


茶道具では華美な装飾は好まず、無駄を排除した徹底的な機能美に拘り、新たに作らせた楽茶碗、特に黒楽茶碗に代表される利休道具を好んでいました。
本能寺の変から仕え始めた秀吉とは良好な関係を築いていましたが、徐々に関係が悪化していき、1591年蟄居を命じられます。多くの弟子や支持者が奔走しましたが助命は適わず、利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられました。
利休宗易の死後、利休聚楽屋敷は取り壊されましたが、利休七哲の1人でもある細川忠興創建が建てた大徳寺高桐院に利休聚楽屋敷の一部とされる書院が残っています。
十数年後、利休聚楽屋敷の跡地は細川忠興創建の長男の長岡休無の茶室、能舞屋敷として利用されました。
利休七哲とは、利休宗易の弟子の中でも特に優れた高弟7人の事を指し、江岑夏書の書物の中でも挙げられています。
わび茶を完成させた利休宗易は、茶道を嗜む方なら知らない人はいない程の大変有名な方になります。