伝世品とは、様々な人の手に渡り「世を伝わってきた品」として
愛玩・鑑賞の対象となってきた品物を指します。
又、先祖が著名な人物であり、その先祖が愛玩し鑑賞の対象として
いた品物という事で現在まで伝わっているという様な意味もあります。
そういった茶道具や古陶磁器は多くの人々をも惹きつける魅力があり、
茶道具においては古くから名物などと呼ばれ、現在でも高額で取引されています。
いわの美術ではそういった伝世品の茶道具や古陶磁器の買取を強化しております。
下記に名物の伝世品の茶道具や古陶磁器について挙げています。
楽焼の創始者・長次郎作の茶碗の中で、千利休が名作とした茶碗があります。
千利休が選んだとされる長次郎七種(利休七種)と、
江戸時代末期に改めて選ばれた長次郎新選七種があります。
中でも黒楽茶碗の「大黒」が特に有名な物の1つです。
利休の求めた茶陶を体現している長次郎の楽茶碗の中でも、典型的な「宗易形」の茶碗とされ重要な作品と言われています。
萩焼は朝鮮半島から李勺光と李敬の兄弟を招き、
長州藩主毛利輝元の命により城下に御庭窯を築いたのが始まりと言われています。
当初は高麗茶碗と似ているが、朝鮮系の釉薬とは違う藁灰釉を基本にして長石釉を加えるという手法が用いられています。
一般的に萩焼と呼ばれるものの代表作がこの「白雨」です。
無雑作な円形高台に肉厚なつくりで、藁灰釉の白濁釉の中に青みを含み
美しいバランスをとっている最高の萩焼と言われています。
唐津焼は由来が定かではなく通説は、豊臣秀吉による朝鮮半島への出兵、文禄・慶長の役(1592年~1598年)の際、強制的に陶工たちを連行し陶工の技術を得て開窯したと言われていました。
しかし、窯跡の調査や堺などの消費地での陶片の出土状況から唐津焼は1580年代に開始されたとみられています。
その中でも「奥高麗」という古唐津の一種が最も有名です。
「奥高麗」とは唐津焼の初期の物で、「奥」が「古い」を意味し古い高麗茶碗を模した物だからという説や、高麗の奥(朝鮮半島の北方)の茶碗を模して造られた物だからという説があります。
利休が所持したと伝えられる「子のこ餅」という銘の奥高麗茶碗が萩焼茶碗としては最も有名で、利休三筒茶碗とされています。
備前焼は須恵器の流れをくみ、小山富士夫の提唱した「六古窯」の1つです。
備前の伊部で盛んであった事から「伊部焼」の名前も持っています。
当初は実用陶器としての側面が強く「備前すり鉢投げても割れぬ」と称されました。
桃山時代頃より茶陶に方向を向けたとみられており、
花入の「鬼の腕」、水指の「破桶」耳付花入の「次郎庵」などがあり、中でも水指の「破桶」が千利休が所持し、後に加賀前田家へ伝わったとして有名です。
信楽では良質の陶土が採取できたことから、
農作用具や生活陶器を生産していたのが始まりとされています。
焼き物は古くから作られていたものの、初期の頃は壷や甕などが中心でした。
室町時代後期、わび茶が流行するといち早く注目を集め、蹲(うずくまる)の花入や鬼桶水指など古信楽の逸品も誕生しました。
なかでも信楽一重口水指の「紫庵」が著名です。
千利休が所持したと伝えられ、表千家4代の千江岑に名付けられました。
鎌倉時代、加藤四郎景正が宋より施釉陶器の技法を伝えたのが、瀬戸焼の始まりとされ、室町時代末頃までのものを古瀬戸と呼びます。
古瀬戸では灰釉や飴釉を用いて、唐物を模した茶入などがよく知られています。
桃山時代には茶の湯の隆盛に伴って、志野、黄瀬戸、瀬戸黒、その後連房式登窯の導入とともに、織部といった茶陶の生産が全盛期を迎えました。
瀬戸の品物としては瀬戸黒茶碗「小原女」が有名ではないでしょうか。
作為的要素が少なく、瀬戸黒の本来の良さが出ていると言われています。