弊社いわの美術では、今回初代三浦竹軒の玄猪包香合をお買取り致しました。
初代三浦竹軒
1900年京都で生まれた初代三浦竹軒は、京焼を窯元とする名家、初代三浦竹泉の三男として幼い頃から沢山の陶芸に触れて育ちました。
父親である初代三浦竹泉は、13歳の時に京焼の窯元である三代高橋道八に師事し、30歳で独立後はヨーロッパで作られた陶器の色彩などを京焼に取り入れ、京焼の改良に貢献します。
また、染付から始まり色絵・吹墨・金欄手など様々な技法を用いるなどとても器用な人物でした。
初代三浦竹泉は62才で亡くなり、その跡を継いだのは初代三浦竹軒よりも18個上の兄、二代目三浦竹泉でした。
二代目三浦竹泉は、初代三浦竹泉の跡を継ぎ、精力的に活動していましたが、初代三浦竹泉の跡を継いでから5年後、38歳という若さで亡くなってしまいます。
二代目三浦竹泉には息子もいたのですが、引き継ぐにはまだ幼かったため、初代三浦竹軒は仕方がなく21歳の若さで三代目三浦竹泉を引き継ぐ事となりました。
13年程三代目三浦竹泉として活動した初代三浦竹軒は、34歳で二代目三浦竹泉の息子へ四代目三浦竹泉を譲り、自身は隠居し三浦竹軒と名を変え、初代三浦竹軒として活動していきます。
その後様々な作品を制作し続けた初代三浦竹軒は、90才という長寿をまっとうしてこの世を去りました。
初代三浦竹軒 玄猪包香合 仁清写 鵬雲斎花押
今回お買取りした作品は、初代三浦竹軒が制作した玄猪包香合 仁清写 鵬雲斎花押という作品です。
初代三浦竹軒が得意とする赤絵と金襴手が用いられた小ぶりで可愛らしい香合となっています。
玄猪包香合とは
玄猪包香合というのは、玄猪餅と呼ばれる物を紙で包んだ状態を再現した香合で、江戸時代初期の仁清が初めて作ったと言われています。
また、玄猪餅の誕生は中国まで遡ります。
古代中国の宮廷では旧暦十月(亥の月:現代の11月頃)に子孫繁栄や無病息災を願って亥の刻(21時~23時頃)にお餅を食べる亥子祝(いのこいわい)という儀式が行われていました。
なぜ名前に亥という感じが使われたかというと、イノシシは沢山の子供を産む習性があるため、イノシシのようにたくさんの子宝に恵まれるようにという思いが込められているそうです。
この風習が平安時代の日本に伝わり、宮廷で亥子祝(いのこいわい)が行われるようになりました。
平安時代の宮廷では、亥子祝(いのこいわい)で食べられていたお餅を亥の名前にちなんで、イノシシの子供のウリ坊に似せて作り、君主から臣下や女官に与えられ亥の刻(21時~23時頃)に食べたそうです。
現在この玄猪餅を食べる風習があるのは関西や中国・四国方面だけとされていますので、関東の方は見たことがないでしょう。
初代三浦竹軒が制作した仁清写の玄猪包香合は、真ん中にイチョウの葉が描かれ周りには松竹梅や唐草文様・亀甲花菱文様が描かれた豪華な香合となっています。
また、裏千家15代家元である鵬雲斎の書付もついている大変貴重な作品といえます。
こちらのお品物は、茶道や華道の先生をされていた方の遺品で出てきたもので、他のお茶道具や華道具、掛軸などと一緒にお買取り致しました。
弊社いわの美術では、初代三浦竹軒の作品の買取を行っております。
コレクション整理・遺品整理で出てきた初代三浦竹軒の作品のご売却をお考えでしたら是非いわの美術にお問い合わせください。
弊社いわの美術では、初代三浦竹軒の作品以外でも中国で作られた朱泥の急須や秦蔵六の鉄瓶・純銀・純金の鉄瓶・李朝時代に作られた茶碗や花瓶・楽吉左衛門のお茶碗など様々なお品物をお買取りしております。
遺品整理・コレクション整理・生前整理・家や蔵の解体・店舗の閉店・事務所移転などでご売却をお考えのお品物がございましたらお気軽にご相談ください。