宮昌太郎 霰紋鉄瓶
宮昌太郎の霰紋鉄瓶買取りました
今回いわの美術がお買取りしましたのは、南部鉄器を作る釜定工房で二代目を務めた宮昌太郎の霰紋鉄瓶です。
宮昌太郎は1913年に釜定工房の初代宮定吉の息子として生まれ、高校卒業後は仙台にある工業指導所の金工科に2度入所し技術を学びます。
工業指導所で技術を学んだ宮昌太郎は、21歳の頃商工省輸出工芸展に作品を出品し見事入選を果たすと、以降様々な展覧会で入選していきます。
初代宮定吉が亡くなり工房を継いだ宮昌太郎でしたが、1941年に太平洋戦争が勃発した事で疎開を余儀なくされ、戦争が終わり戻った時には工房も家もなくなっていました。
しかし、父から受け継いだ工房を無くすわけにはいかないと、すぐ再建に取り掛かり戦争が終わった翌年には工房を復活させます。
工房再建後鉄瓶の製作を行いましたが、戦後の生活が一変して変わり戦前のように鉄瓶を使う家庭が少なくなってしまった現状を受け、南部鉄器にクラフトデザインを取り入れるようになります。
その後、日本デザイナークラフトマン協会創立に参加して日本の伝統工芸とクラフトデザインを結びつける事に成功しました。
以降、日本伝統工芸品とクラフトデザインを組み合わせた作品を展覧会などの数多く出品し、日本デザイナークラフトマン協会理事を務めるなど今後の活躍が期待されましたが、55歳の若さでこの世を去ります。
現在は、二代目宮昌太郎の息子の宮伸穂が三代目を引継ぎ現在に至ります。
釜定工房
釜定工房は、初代宮定吉、二代目宮昌太郎、三代目宮伸穂と三代にわたり、南部鉄瓶・南部鉄器を作り続けている工房で、明治時代に創業され100年以上の歴史をもつ工房となります。
明治時代、中国から広まったお茶文化は日本でも広まりつつありましたが、お茶を飲む為の鉄瓶はとても高級品で買えるのは裕福な家ばかりだったそうです。
これを見ていた初代宮定吉は、庶民でも気軽にお茶を楽しめる道具を作りたいと考えて宮鉄瓶店を構え、日常で使える南部鉄瓶の製作を行ったのが釜定工房の始まりです。
ちなみに、釜定工房の名前は初代宮定吉の定という一文字を取って釜定工房という名前になったそうです。
初代宮定吉が亡くなった後、息子の宮昌太郎が二代目を引き継ぎクラフトデザインの考えを取り入れ、日本の工芸とデザインを結びつけました。
二代目宮昌太郎が55歳という若さでなくなった事で二代目の息子の宮伸穂は16歳という若さで三代目を引き継ぎ現在に至ります。
三代目宮伸穂は、フィンランドに在住していた事や欧米での個展開催の経験を生かし、海外のユニークなデザインと南部鉄器の伝統を組み合わせた作品を手掛けています。
創業からの伝統技術を守りながら新たなデザインを取り入れた作品は、現代の生活に馴染みやすい作品となりました。
鉄瓶の買取について
今回お買取りした二代目宮昌太郎の鉄瓶は、霰紋と呼ばれる作品です。
名前の通り霰のような細かい粒が均等に紋押しされたシンプルな作品ですが、余分な物がなく重厚感漂うお品物となっています。
お買取りした鉄瓶はしばらく蔵で保管されていた為鉄瓶に汚れと栞にサビがついていましたが、未使用品でしたので高評価でのお買取りとなりました。
また、お買取りした鉄瓶には共箱がありませんでしたので品物単体の評価となりましたが、共箱が付属する事によって査定額がプラスされますのでご売却お考えのお品物などございましたら箱は捨てないようお願い致します。
いわの美術では、今回ご紹介した二代目宮昌太郎の鉄瓶以外でも様々な作家の鉄瓶をお買取りしております。
お買取り可能な鉄瓶
龍文堂 安之介、宮崎寒雉
雨宮宗、佐藤提造、日本梅泉
鈴木盛久、秦蔵六、和田美之助
角谷一圭、高木治良兵衛、金森佐兵衛など
お片付け途中に「これはゴミだから」と捨ててしまうお品物もあるかと思いますが、もしかするとそれは高額査定が出るお品物かもしれません。
ゴミとして処分してしまう前に弊社までご相談頂けましたら、お買取り可能なお品物かどうかお調べする事も可能です。
また、お品数が多い場合お住まいやお品物の詳細によっては出張査定も行っておりますのでお気軽にご相談下さい。