
三浦乾也 みうら けんや
幕末の陶工
更新日: 2009/10/26
幕末の陶工。文政4年(1821)〜明治22年(1889)。
幼名は藤太郎、初号は乾六、別号を天禄堂、通称は陶蔵。
谷文晁に絵を習った他、蒔絵・彫刻等を習得し、
小川破笠(おがわはりつ)が編み出した破笠細工の蒔絵を
手がけるなど多芸多才で、西村藐庵から乾山伝書を授かり
乾山流の作も多く、弘化2年(1845)には乾山六世を名乗った。
安政元年(1854)幕府から西洋式軍艦の建造技術を習得
するよう命ぜられ、長崎に赴いた。
安政3年(1856)仙台藩に造艦惣棟梁として招聘され、
松島湾の寒風沢島で洋式軍艦「開成丸」建造の設計・監督に
当たった。仙台には万延元年(1860)まで滞在。
その間、堤焼の陶工庄子義忠を弟子とし「乾山秘伝書」と
「乾」の一字を与え「乾馬」の号を名乗らせるなど、
初代針生乾馬を通して仙台の焼物に影響を与えた。
明治2年(1869)神奈川県小田原に窯を築き、
埼玉県の飯能窯にも携わり、翌年横須賀でガラスを作り、
また東京小菅で煉瓦を製造、のち深川に窯を築き、
明治8年(1875)には墨田区の向島に築窯し、
根付や簪の珠を焼き「乾也玉」の名で流行した。
幼名は藤太郎、初号は乾六、別号を天禄堂、通称は陶蔵。
谷文晁に絵を習った他、蒔絵・彫刻等を習得し、
小川破笠(おがわはりつ)が編み出した破笠細工の蒔絵を
手がけるなど多芸多才で、西村藐庵から乾山伝書を授かり
乾山流の作も多く、弘化2年(1845)には乾山六世を名乗った。
安政元年(1854)幕府から西洋式軍艦の建造技術を習得
するよう命ぜられ、長崎に赴いた。
安政3年(1856)仙台藩に造艦惣棟梁として招聘され、
松島湾の寒風沢島で洋式軍艦「開成丸」建造の設計・監督に
当たった。仙台には万延元年(1860)まで滞在。
その間、堤焼の陶工庄子義忠を弟子とし「乾山秘伝書」と
「乾」の一字を与え「乾馬」の号を名乗らせるなど、
初代針生乾馬を通して仙台の焼物に影響を与えた。
明治2年(1869)神奈川県小田原に窯を築き、
埼玉県の飯能窯にも携わり、翌年横須賀でガラスを作り、
また東京小菅で煉瓦を製造、のち深川に窯を築き、
明治8年(1875)には墨田区の向島に築窯し、
根付や簪の珠を焼き「乾也玉」の名で流行した。
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